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最後の戦い!2001年1月。
年が明けた。21世紀の幕開けであった。
実際この頃になると、「英語」もほぼ完成の領域に入っていた。SFCの問題でも9割は確実に取れていた。英語検定準1級レベルまでの単語は、完璧に暗記していたので、まず分からない語句はほとんどない。英語でも日本語でも関係なく、難易度の高い文章が読めるようになっていた。
編入界から受験界へと復帰し、12月31日に受けた「慶応大学SFCプレ試験」では、思うような出来でないにしても、100点中88点。全国で8位にランクされた。上位ランク者はほぼ帰国子女なのだろうが、僕はそれでも負ける気はしなかった。
その模試での偏差値は70だった。一般の全国模試に直すと、大体偏差値80超えたラインに相当する。僕は6月に立てた目標、英80、国80、数70後半、公民60後半を最後の最後で達成したのだった。
迷うことはない。僕の受験はさらに加速する。「ここまで来たから安心」などという気持ちは、これっぽっちも無かった。 僕にとって、完全合格して夜間を抜けだす事は、奇跡を超えたさらなる領域である。「どこでもいい」僕は合格したかった。余裕など微塵もない。むさぼるように勉強を繰り返した。 「落ちたら最後」、この言葉が毎日僕の脳裏によぎる。
僕はついに親に全てを打ち明けた。 「今年もう一度大学を受ける。お金なら必ず返す。一生のお願いだ。受験させてくれ」、僕の悲痛に満ちた声だった。親は動揺を隠せなかったが、これだけの成績を見せられたら誰も「やめろ」とは言えない。受験を許してくれた。
もしそれでもお金を出してくれないのなら、サラ金から借りてきてでも受験するつもりだった。今思えば馬鹿馬鹿しいかもしれないが、当時の僕は、それだけ危機迫る状況だったのだ。
受験大学を決めた。「やりたいことで学部を選びなさい、偏差値じゃないんだよ」、こういう世の風潮に対する、最後にして最大の反抗だった。 「勉強なんか大嫌い。どこでもいいから、ブランドが欲しい!」 第一希望は東大文学部の後期試験。
そこからは何でもありだ。文学部から、経済、法、商、外国語など文系完全制覇!「オマエは一体何が勉強したいんだ? 早稲田政治経済学部(偏差値3教科67)、早稲田法学部(偏差値3教科66)、早稲田商学部(偏差値3教科65)。慶応大学総合政策学部(偏差値英語1教科70)まで受験。 そして国立前期が空くので、東大ステップのために、日本で一番難しい英語入試と言われる「東京外国語大学、英語学科」(偏差値71)の受験を決めた。ここ合格すれば、大阪外語大との「日本2大トップ外大完全合格」が実現することになる。
未だロ−マ字発音、全然英語が聞けない喋れない、しかし問題だけは完璧に解ける「受験マシ−ン」の、最高のパフォ−マンスである。「吐くほど頑張れば、それでも合格するんだ!」相変わらず僕はそう叫んでいた。 計6校。これが僕の最後の舞台だった。これで落ちたら、もう僕には「受験」は不可能な領域である。
こんな惨めな人生があるだろうか、僕は何度も自分に問いかける。 すると自然と机に向かえる。この時はもう無心だった。何も見えなかった。「失敗してもやり直せるさ」、こんな逃げ道は無い。だから極限のレベルまで自分を追い込んだ。
そんな中、国立大学一次試験である「センタ−試験」の受験表が届いた。戦いの緒戦はどこから始まるのか。 僕はその試験会場に目を疑った。とんでもない名が僕を凍らせる。そう、そこにはこう記されていた。
「試験会場、神戸大学」、と。
僕に与えられた最後の舞台は、あの「神戸大学」だったのだ。今までの2年間、ここが全ての舞台だった。この地で様々なことを思い、苦しみ、「抜け出してやる」そう決意した。そしてようやくたどり着いた。その終幕の場所が「神戸大学」だった。 何もかもが出来過ぎだった。
ふと、これまでの戦いを振り返ってみる。1浪目の有り得ない全敗不合格からカズヤの合格、そしてシンジさんとの腐った2浪目、昼間生との偏差値80決戦、模擬試験ビラ、大阪外語大奇跡のキャンセル。考えてみれば「筋書きがあった」としか思えない2年間だった。
僕はその時、ようやく気付いた。「これはドラマなんだ」と。 今まで「何でこんなにツイてないんだ」、こう漠然と何度も苦悩した。その答えがここにあったのだ。 「これはドラマだ、僕は今とんでもないドラマを歩んでいるんだ、日常にないこの加速は、すべてドラマなんだ」 僕は震えた。
平和で平凡だった高校時代が懐かしかった。毎日友達とバカやって笑っていたあの頃にはもう戻れない。今、自分は抜け出せないドラマの中にいた。
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