斉藤さんの記事

犯行声明

−「偏差値70からの大学受験」という名の思想テロ−


ひさしぶりです、筆者本人サイトーです。日ごろからの当サイトの愛読、応援メッセージなど 心から感謝いたします。日々様々なご意見を頂戴しています。その中でもかなりの数で、 間違った解釈、そして完璧なMisleadが見受けられます。やはり、テーマがテーマなだけに、 このサイトの意味が大多数の方には伝わっていないのかもしれません。そこで、自分自身が語るべきなのではないかと思いました。


今、自分自身の進路にひと段落ついたこの瞬間、自分が感じていること、そしてこの「偏差値70からの大学受験」の意義について、もう一度、語ってみたいと思いまして、失礼いたします。


自分自身、LinguisticsのMaster(修士)が無事終わりました。 アメリカに初めて来たあの時の衝撃、第二言語を話すことでの「自分という存在」の 完全否定、勉強という概念をひっくり返されたLinguisticsとの出会い。全てが今は 自分が目指す「夢」に向かっての糧だったのだと、今は確信として自分の心に響いています。


これからは、冬休みに出した同じNY 内の別の大学のPHD(博士課程)から 合格を頂きましたので、そちらに進みます。ここからは完全に「好きな勉強」だけに打ち込みます。 多分、人生での最初の「ピーク」だと思っています。


授業で秀でること、積極的に学会やJournalへの投稿。様々なことがLinguisticsの生徒として、 求められてきます。また同時に、現在結果待ちのTeachingの仕事を通して、さらなる教務力の向上、生徒の心を どれだけ掴むかというアツい心。


24時間全てが自分自身への挑戦であり、「努力」という武器ひとつで、人間どこまでいけるか、究極の領域に たどりつくまでトコトンやってみよう。ここアメリカで、そんな「夢」を追いかけられる自分自身の境遇に感謝 せねばならないと強く思っています。


そして今の自分と、「偏差値70の大学受験」のサイトーとの関係。明らかに今の自分には、 あの頃の記憶は実は今ほとんどありません。まして自分自身のアイデンティティーの一つにすら形成する要素に なっていないと思います。


アメリカでのこのIntenseな生活の中で、誰も日本の大学になど興味ないし、そんな事久しく話していません。 英語で多くのアメリカ人と世界中の人たちと語らい、そして「夢」を競うあう中に、日本の「大学名」など、 何一つ関係ありません。日々ともかく英語を通して、自分の限界に挑むばかりです。この今このLinguisticsでの サイトー、そしてアメリカ文化という二つ目の文化を得たサイトー。この二つこそが、自分の今のプライドの全てだと感じます。


また今となってはどうでもいいですが、大学時代のサイトーも全くもって過去の話です。資格に燃えて、 毎日バイトと勉強で多忙な毎日。英語資格はほぼ制覇して、交換留学を取ったあのときの興奮。これも 全て今では思い出す程度のことがらです。それは今のスピードが自分にとって限界ギリギリだからです。 今がやっぱり「ピーク」だからです。


しかしながら、こうしたふざけた人生になった、最初の機転は何度思い返してもあの、くだらない、しかし 何故か非常に人間臭かったあの「受験」だったことは、正直に告白しなければなりません。信じられないこと ですが、全て人生は「階段」だったということです。


突然誰もが「奇跡」を見ることは出来ないし、そんな領域に瞬間にたどり着けない。 「夢」は日々毎日の地道な、しかし確実な「努力」でしか達成できないということです。


僕の人生の使命は、このただ一つの真実を信じ、そして自分自身で実践する ことだと自分勝手にも考えています。しかし、このメッセージがどうしても伝わらない読者が、 意外にも多いことは実は驚きでした。


掲示板の多くの意見が、大学レベルの比較、学歴ブランドの有効性、もっとも 楽できる勉強法は何か、などなど。今のアメリカでの自分からすると、やはりとんでもない誤解が 出来るものだと、逆に関心出来るくらいでした。読者のかたがまだ非常に若い(高校生、浪人生、大学生) というのが主な原因でしょうし、また立派な成人でも、恥ずべきことに、これだけまだ「学歴」大好きなんだな、 と思いました。


思えば日本のシステムでは、良い大学にさえ入れば、絶対に転機になるほどの「多忙さ」はあまりきませんから、 「受験」で頭が止まっているのかもしれません。今の自分が、少々答えるのも苦労しますが、主な読者からの質問に 是非答えさせてください。。。(汗)それでもっとこの話の意図がお分かりいただけるのあれば。。。(苦笑)


第一に、「早稲田2浪はすごくない」というご意見。(久しぶりに早稲田、2浪という言葉を使いました(笑)。)


もちろんその通り。全くすごくも何もないし、その事実に何の説得力もないと思います。そして多分、そういった箇所に「何にもすごくないぃっ!!」と鼻息荒げて批判してくる方たちに言わせて下さい。


この「偏差値70からの大学受験」はひとつのドラマです。 リアリティと人生の真実を追究した決定的なドラマです。このふざけた、キチガイな ストーリーを「面白い」と思ったから、私自身が執筆したのです。事実、出版社の方々からも、「プロットが狂っている、面白い」という評判も頂きました。


この「受験」という誰もが共感し、経験する些細なフィールドから、いったいどこまで人間は面白いドラマを作れるのか。 これを極限まで追求したドラマなのです。これが、テーマが恋愛や、スポーツではここまで、 キチガイに熱狂的なストーリーが出来ないと思います。


自分が体験したそのドラマが、次々に起きた実際の「奇跡」が、世の中のどのいわゆる エンターテイメントよりも他人をひきつけるのではないかと思い、 この「偏差値70からの大学受験」が誕生したのです。


その受験実績ではある種のスパイスであり、その起きたキチガイストーリーに焦点を置いています。 したがって、学歴関連の批判は全て的外れになります。それよりも、「この話がエンターテイメント的に面白いか」が 批判の焦点になるべきだと思われます。


第二に、そのエンターティメントを通して、どうしても伝えたいメッセージがありました。 (意外に多くの読者がそれにたどりつけなかったのは、私の責任です)


それは「人生は階段であり、その階段は努力という地道な作業で一歩一歩歩んでいくものだ」、ということ。 結局同じ大学に入っても、そこまでの努力してきた過程は千差万別だし、事実その後の進路をみれば、同じ 大学生でも全く違います。やはりその他人より前に出る「実行力」には、的確に目標を捕らえ、 努力できる才能が必要であり、その「実行力」は日々の積み重ねであるということ。「夢」はその自分の 「実行力」に比例して、日々大きくなっていくものであるということ。 これらは、私自身「人生の真実」あると確信しています。


良い大学に入ったほうが得か、それで良い会社に入れるか、社会での適応力が大事だから 良い大学は無意味だ、など。はっきいって、全てどうでもイイことだと思います。当たり前 ですが、ともかく目の前のことをしっかり努力すること。それが積み重ねで、次の段階へと 自分が成長するのではないでしょうか。


誰も好奇心旺盛な6歳の子供に、「スポーツはだめ、ピアノも習わないほうがいい。 社会で成功するためにも、人生を効率的にいくためにも、今はこれとこれをしておいた方がいい。。。」 などと言わないでしょう。ともかく6歳なら、何にでも挑戦して、ともかく可能性を見つけてみたら、 と誰もが教育するでしょう。


まだ若い受験生に、その後の人生を効率的に考えた、そんな小賢しい言い訳は必要ないと思います。 それよりも、ともかく自分自身のことについてとことん悩みぬき、可能性について追求し、「自分とは何か」 について思索することの方が100倍必要だと思うのは、私だけでしょうか。


「良い大学なんていかないでもイイ」
「社会で成功するには、勉強は必要ない。。」
「こうすれば苦労はさけて、一番効率的な人生がありますよ。。。」


これらては「勉強しないでいい」という言い訳に得てしてなりやすく、 結局勉強を避けた分、「実行力」の乏しさから、絶対に限界以上の努力を 何かにつぎ込むことは一生ないと思います。


「受験」はそういった意味で、人生の試練の最高の一発目だと思います。 誰にでも平等に機会は与えられ、「偏差値」というゲームのような指標から、分かりやすい参考書の数々。 「受かれば遊べる」などのCatchyなコピーも、18、19の若者にとって、最高のモチベーションになると思われます。 また強制される点も素晴らしく、自分がヤル気がなくても、周りが気を使って必死で盛り立ててくれます。


それを無視し、イチイチやる前から「それは意味はない、どの道が一番効率的か」などと考えてばかりでは、結局何も行動を起こさないことがほとんどです。 つまりそうした自分の余計な分析は、単なる「言い訳」と呼ばれるものではないでしょうか。目の前の試練をともかく行動を起こさないための、「言い訳」にすぎないのだと強く感じます。


年をとるにしたがって、自由が増えるにしたがって、何が人間変わっていくのかと言えば、「言い訳の上手さ」なのではないでしょうか。 18、19ぐらいから「受験は意味がない」「勉強しても社会出てから役に立たない」と都合よく何もやらない自分を言い聞かせ、当然「夢」をみることなく、 グダグダ社会に出てみれれば「世の中がおかしい、上司がおかしい」と自分をそれでも保護し続け、しまいには「お金でしあわせは何もつかめない」などと奇跡の言い訳にたどり着きます。


自分を大事に守って、必死に行動することから避け続けた挙句、何も行動せず、何も手に入らない。自分の可能性も見ることはないし、夢さえも何だか分からない。 最もタチがわるいのは、そういう人生で一度たりとも「自分自身」に向き合い、「とことん努力すること」を経験していないひとたちは、その「努力」の先に見える「結果」の持つ意味が全然理解できていない気がします。


「努力」抜きで他人の「結果」にケチをつけ、そのくせ一人前に分析までしてあげる。余計なお世話もよいトコです。 だからこそ、本当に「勉強」することの意義、今何かに努力することの意義など、全く分からないからこそ、 「最も効率的な方法は。。。。。」と得意顔で話すのだと思います。そういう人にとっては、この「偏差値70からの大学受験」全く違う観点から見えてしまうでしょう。ともかく中身の「効率性」について、必死で批判してくるでしょう。


一言で言わせてください。そんな批判、どうだっていいです。(苦笑) 究極の教育とは、「努力を肯定し、そして自分の可能性を高めること」だと思います。 それは誰にでも「平等」だからです。「自分自身」に挑戦し、そして「夢」見る。 これは人間の叶えうる、最高の「しあわせ」ではないでしょうか。


今のLinguisticsでも、「こんな事やってても自分のやりたいことじゃない」などと文句 を言っているひとがたまにいます。しかし僕がいつも言い返すのが、「しかしこの努力、そして経験は必ず後で響いてくる、無駄などない!」ということ。


悲しいことに、世の中には、正々堂々と、自分に向き合い、「努力」をした人たちが驚異的に少ないと思います。 常に上手い具合の言い訳が、そういった真実から人を遠ざけます。だからこそ、目の前にある「結果」をMisleadして、おかしな結論にたどりつき、他人の悪口ばかり言い合う結末に終わるのだと思います。彼らはいつも目先の「結果」だけを鼻息荒げに語り、その証拠に「過程」は一切話題にあがりません。


悪なのは、こうした「努力」の意味を履き違え、言い訳に固められた大人たちが、いざ自分の子供をもったとき、「社会とは、生きるとはこういうことなんだよ」などと、したり顔で話すのなら、これはもう「犯罪」だと思います。 こうした教育、風潮そのものに、「偏差値70からの大学受験」は挑戦します。


このもっとも無意味に見える、「偏差値70からの大学受験」というタイトル。2浪早稲田という虚しい結果。学歴を敢えて追いかけたという無意味の極み。全ては一つのメッセージにたどり着きます。 それでも「努力」するということは間違っていないんだ、ということ。 他人誰にもその意味が伝わらなくても、それこそが自分自身を高みへと導く唯一の手段なんだ、ということ。


サイトーの日記は、ある種継続させていきます。 自分はまだまだ「自慢」出来るものなど、何一つありません。また現在のLinguisticsでは他人に圧倒され、とてもプライドなど持てる時間がありません。 また恒例のごとく、ただただ「努力」してわずかな「結果」を待つばかりです。


しかしその誰にも見えないような「結果」でも、執念のように「努力」し続けたその先に、とてつもない「夢」が叶うような希望を感じてしまうのです。 僕はさらに前にすすみます。誰が見てもバカバカしくても、自分の持つBeliefには確信があるからです。 誰も見たことのない、そんな世界をこの目で確かめるため、僕は一歩一歩人生という「階段」をのぼっていきます。 いつか、この「真実」が多くのひとの「常識」に変わるまで。「偏差値70からの大学受験」、この思想テロは続きます。


これからも、この「偏差値70からの大学受験」をよろしくお願いします。 我々はさらに「進化」します。


サイトー
2007年5月14日

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